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本牧の街 − エッセイ

 

本牧の街には人々を惹き付けてやまない魅力がある。
この街にゆかりのある方々が語る、本牧をめぐる特別寄稿集。

 

 

横山 剣  「本牧音響と本牧スタイル」
平塚太一  「本牧のガキはアメリカ好き。」 
夜横浜   「夜の本牧について」
大久保文香 「本牧がアメリカ村だったころ」 

 


 

 

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「本牧音響と本牧スタイル」


横山 剣[クレイジーケンバンド/Honmoku Rudys]

 

僕がまだおちんちんに毛も生えてない小学校低学年の頃、日吉に住んでいた従姉妹がボーイフレンドのクルマでよく本牧に遊びに行ってました。で、元町から麦田のトンネルを抜けた途端に「カーステレオの音楽まで全然違う音に聴こえるんだよ!」って言ってましたね。それは音響工学的にどうこうってことじゃなく「本牧に行く!」っていう興奮によって脳にエフェクトがかかったってことでしょう。ファズとか、ディレイとか、エコーとか、レゲエのダブのようなね。言ってみれば本牧音響。そして、本牧の歴史を遡れば、人々を狂わせ、脳をシビれさす状況ってのが戦前のチャブ屋の時代から、いや、440数年前からの奇祭、お馬流しの時代から現在に至るまで、まるで変化身のように姿、形を変えこの地に現われては消え、また現われては消え、さらに現われては消え、という周回を重ねて現在に至るわけですねぇ。

 

さて、戦後の本牧と言えば、米軍ハウンジングエリアとその周辺の話を外すわけにはいかないでしょう。中でも音楽、ファッション、クルマは特にね!!! ね!!! ね!!! ま、ここには書ききれないほど幾十にも塗り重ねられたハウスの壁のペンキみたいなブ厚い時代の層からは、当然のことながらグッと来るインターナショナルなミクスチャー文化と状況が巻き起こるものですが、例えば、don't look backなスタンスで最新型の不良音楽を2013年の今に放射し続けるSKA-9のCHIBOWsan、そのCHIBOWsanの幼なじみや、かつてのワル仲間の息子さんたちが、例えば世界を揺るがすレゲエ・サウンド、Mighty Crownだったり、Fire Ballのメンバーだったり、世界的俳優でパンクロッカーの浅野忠信さんだったりするわけですが、こうした世代やジャンルの壁を軽く超えて、みんながごく自然にブギーカフェでお茶をしたり、談笑してたりする画というのは、実に本牧的ライフ・スタイルと言えるでしょう。表層だけを見て「本牧も変わっちゃったよな」なんて嘆く人も多いんですけど、少なくとも現役の人はそんなネガティヴなこと言わないでしょう。Stay Positive!!! イイネ!イイネ!イイネ!

 


 

 

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「本牧のガキはアメリカ好き。」  


平塚太一[デザイナー]

 

昭和34年(1959年)市立大鳥中学2年生。本牧二丁目の自宅から現在の山頂公園の丘を超え、芝が敷きつめられた大きな敷地に建つアメリカンハウス脇を特例で通学していた。金網の中のアメリカはすべてが豊だった。アメリカンスクールのテニスコートは5面ほどあり、全面を使い金髪女子が白のショートパンツにポロシャツ姿で、テニスに興じていたのを眩しく眺めていた。当時、市立学校の女子体育服は濃紺の提灯ブルマーで、何とも不気味な服から短い大根足が出ていた。学校のテニスは軟式ゴム球だから打球音も間の抜けたバコという音。アメリカンスクール女子たちは硬式球を使っているから、打球音が乾いたパコーンという高い音が響いていた。金網から出た球を拾うと、短い毛に被われた球に少し驚いた。

 

テニスコートの並びの敷地には、日本人立ち入り禁止の米軍専用HONMOKU PX(post exchange)があり、今の大型スーパーのようなもので、当時映画館やボウリング場もあった。大型ショッピングカートに食料品やら大型缶詰、コーラ、ジュースなどを満載し車の後部トランクに納めていた米軍家族の光景は羨ましかった。当時の本牧暮らしは、毎日商店街に出向いて夕食の献立を考え、必要最低限の食品を購入し氷式の木製冷蔵庫に大切におさめた。食料品を大量に購入するアメリカ人達は、一日で食べ切るから体が大きいのだと想像したが、アメリカンハウスに招かれたことで謎は解けた。白い大型の箱は電気冷蔵庫だったし、水道をひねるとお湯が出て戸惑った。

 

PXの駐車場は150台程が平面で駐車出来る広さで、アメリカから届いたばかりのキラキラした新車が並んでいた。警備は米兵MP(military police)で、腕に腕章を付け腰に45口径のコルト拳銃を携え、背筋を伸ばし、帽子を深く被り大股で歩く姿はカッコよかった。
アメリカンファッションに憧れ、ジーンズとスニーカーが欲しかった。当時、国内で売られていたジーンズはデニムと言われ洗っても色落ちしない生地で、よれるだけの薄生地。スニーカーもカッコ悪いオニツカタイガーを履いていた。そこでPXに勤務する知人のおばちゃんに頼んで、リーバイス27インチとコンバース8サイズを注文した。ジーンズが入手したその日に、風呂場でタワシに石けんを付け膝の当たりを擦り、干し上がると少し白く色落ちしているのが嬉しかった。当時、ザキ(伊勢佐木町商店街)に出掛けるユニフォームとしていた。夏は白無地Tシャツにジーンズ。冬はその上に革ジャンだった。

 


 

 

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「夜の本牧について」


夜横浜[横浜バー案内

 

其れはまだ人々が「愚(おろか)」と云う貴い徳を持って居て、世の中が今のように激しく軋み合わない時分であった。 

 

谷崎潤一郎「刺青」冒頭より

 

この小説を書いた文豪、谷崎潤一郎は、戦前の本牧に住んでいたことがあるらしい。約百年前のことだ。「愚か」と「貴い徳」という一見、相反する言葉を含む、このフレーズが気になって仕方がない。この小説は、別に本牧のことを描いたものではないけれど、「愚か」と「貴い徳」という言葉を聞くと、横浜の夜の街を思い浮かべてしまう。本牧も含めてだ。どんな時代だったのだろうかと。相反するものがうまく混ざり合うと、面白いことが生まれる。どの時代も大体そうだ。

 

本牧のあるバーのマスターから言われたことがある。「本牧の男というのは、酒に強くて、女性に優しくて、ちょっとワルで、紳士でなきゃいけない」と。不思議なことに、酒のある夜の世界は、文献にも残らず、先輩から口伝いに聞くしかない。本牧のように、一時代に大きな影響を与えた場所であってもだ。

 

時間は、長くなると歴史になり、長くなりすぎるとしがらみになる。しがらみのない、新しく軽いものも悪くないし、歴史を背負った深いものも悪くない。その時代が生み出した状況だったのだろうけど、「愚かという貴い徳」であることを許容できる社会でなければ、皆が語る『本牧』は生まれなかった。

 

夜と酒。男と女。アメリカと日本。暴力とドラッグ。音楽とダンス・・・。「フェンスの向こうのアメリカ」と、「フェンスのこちらの本牧」を知りたいのであれば、幸い、今でもそれは可能だ。ただし、本牧の街を、自分の足で飲み歩いてだ。文献なんて残っていないし、そんなもの読んでも分からない。伝説のバー、ラ・ジョイ。今もミュージシャンから多大なる尊敬を集めるブギーカフェ。神と慕われるIG。本牧の象徴、ムーンアイズとムーンカフェ。結局、精神的にでかいのは女なんだなと痛感するアロハカフェ。ぶっ倒れるまで飲むことを忘れていない魂のジェベルバー。すべてが、本牧スピリットと同時に、微妙に異なる独特の個性を持っている。懐かしさにふけるのもいいけれど、現在と過去を同時に楽しめる、今の本牧を飲み歩くのも悪くない。

 

何かを決めつけて、語るのは簡単だ。ただ、曖昧な世界の方が深く、魅力的だと感じるのは自分だけだろうか。酒のある夜の世界では、何かを決めつける方が面白くない。眼前の風景を眺めるのもいいけれど、酒を飲みながら存在しない曖昧な風景をイメージしてみるのも悪くない。皆のイメージとしての本牧とは、今も昔も、酒のある夜の世界だ。そして、それをつくりあげたのは、建物でも、街並でもなんでもなく、人だ。昔も、今も。次の時代が来る前に。次の時代をつくるために。

 

夜の本牧を作ったすべての先輩たち、そして、今の夜の本牧をつくるすべての人々に捧ぐ。

 


 

 

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「本牧がアメリカ村だったころ


大久保文香

 

出版社を経営していた父親はかなり遊び人にだったようだ。戦争前は大仏次郎先生達とも小港のチャブヤ街に出入りしていたと聞く。東京都豊島区目白が空襲で被害を受けるとすぐに土地勘!のある本牧に疎開してきた。私が4歳の時のことだ。
その伝手で小説家の山本周五郎一家も隣に越してきて貧しく豊かな本牧生活が始まった。
食べ物は浜から面白いようにとれる貝を、漁師さんからは魚を。庭を畑にして何とか二家族十人が生き延びた。

 

戦後すぐに家の前を「上陸用舟艇」(船自動車とも言っていた)が沖の航空母艦からガラガラと通ったのを覚えている。たちまち市電通りの本牧一帯がフェンスに囲まれた米軍ハウスになった。海側がエリア1、和田山側がエリア2。高級将校さんたちの家が山側だったと後で知った。傾きかけた漁師町の隣は、道路を隔て「フェンスの向こうのアメリカ」。
芝生の中にぽつぽつと間隔をあけて建てられたハウス。フェンスの跡がほっぺにつくのを承知で飽きずに見物していたものだ。ショートパンツでバーベキューに興じるアメリカ人ファミリー。戦争に負けるのも当たり前と子供心にも理解できた。

 

家の離れは山本周五郎さんの書斎になっていて名作「柳橋物語」が生み出された。子供たちがうるさいと先生は間もなく旅館の間門園に移り、その後どんないきさつか離れはお茶の先生だったという襟足のきれいな色白美人京子さんにテキサス生まれの大柄なサージャン(軍曹)スミスさんが通ってくるようになった。うちの食生活はたちまち一変した。小港のPXからスミスさんが買ってくる食べ物やたばこ、ウイスキーがどんどん運び込まれて初めてコンビーフやチョコレートを食べた私たちはただただびっくり。周五郎さんの息子と隠れてなめた歯磨きのハッカの味が忘れられない。なぜだかスミスさんの家にも遊びに行って憧れのハウスに入った。玄関に続く広いリビング。その奥がなんでもあるキッチン。二階に6畳はありそうな風呂とトイレが一緒になったタイル張りの部屋があって何もがびっくりの連続。奥さんが半袖の上にふわりと毛皮のコートを羽織ってアメ車に乗るのを口をあけっぱなしで眺めていた。
近所のおばさんたちもメイドさんでハウスに働きに行ってお給料のほかに食糧やたばこなんぞもらってきていたようだった。

 

当時のお店が少し今の本牧に残っている。アメリカ人たちとブロークンイングリッシュで立派に商売をしていた。その中の酒屋のおかみさんが「本牧には今でもハウスが有ったほうが良かった。アメリカさんと本牧の人たちはとっても仲良くやってたもの」という話がとても印象的。

 



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